人生1回、これに賭けるしかない。
偶然に巡り合ったスポーツMCという天職MC・ラジオパーソナリティ 岡田 拓海
WORK HARD, PLAY HARD. JUST CHILL, BE YOURSELFを体現している方のライフストーリーを紹介する「RH STORIES」。今回は、30歳を目前に会社員生活を辞め、ふとした出会いから全く経験が無いにもかかわらずMCを仕事にすると決意し、今では様々なスポーツ関連イベントのMCやラジオパーソナリティーとして活躍する岡田拓海氏をフィーチャーします。
「少年オカダ」がもたらした、”人前で突き抜ける”という初体験
生まれは埼玉の川越で、物心つく頃には横浜に引っ越しました。
そこから二十歳まではずっと横浜です。
子ども時代は体動かして外で遊ぶことが大好きで、大体クラスで一番おちゃらけるような奴と一緒にいましたね。
その横にいてツッコミを入れるという、おいしいポジションにいたと思います(笑)。
印象的なのは、中学の時の体育祭。
その頃『学校へ行こう』という、V6がやっている人気のテレビ番組があったじゃないですか。
あれで岡田准一さんが「少年オカダ」というキャラをやっていたんですよ。
体育祭で応援合戦みたいなプログラムがあって、そこで出し物をやるってなって、なぜか「少年オカダやってよ」と言われて。
応援合戦の最中に、全校生徒が見ている中で、朝礼台に音楽と共にダン!と現れて、「少年オカダ!」って叫ぶというやつだったんですけど…
その頃も相変わらず目立つ奴にツッコミを入れるというキャラだったので、自分自身が目立つのは嫌いだったんですよ。
だから死ぬほどやりたくなかった。
嫌過ぎて、体育祭前日の晩に「グランドがドロドロになったら運動会なくなるだろ」と親友連れてグランドに水撒きに行ったくらい。全然駄目だって帰ったんですけど(笑)、それくらいやりたくなかったです。
緊張し過ぎてやった時の記憶はほぼ無く、ウケていたのかは分からないけど全校生徒がワー!とはなりました。
たぶんみんな「(普段はそういうことをしない)あの岡田が!?」となったと思います。
でもそれで突き抜けたというか、人前に立ってこういうのもやれるんだと感じた、初めての体験だったかもしれないですね。
アメフトに全てを捧げた高校時代と、反動でスポーツをきっぱり辞めマスコミを目指した大学時代
高校は受験の末、法政二高という男子校に行きました。
一学年700人いるマンモス校で、スポーツの部活はどれも神奈川県で優勝を目指すような強豪ばかり。
それでテニス部に仮入部するんですけど、テニス部に至っては全国3位というレベルで、むちゃくちゃしごきが厳しくて、ちょっと耐えられなくて3週間くらいで辞めました。
その後いくつかの部活を仮入部で転々とするんですけど、その中でクラスメイトがたくさん入っていたアメフト部にたどり着いた。
アメフトは高校から始める人が圧倒的に多くて、ちょうど僕みたいな他の部でしごきがキツくてこぼれ落ちたアスリート達が集まるんですよ。
だから結構フィジカル能力が高くて、キャラが濃いノリの良い強者たちが集まっていて。
そこでコイツらめっちゃ気が合うなと、楽しくてそのままアメフトやることになったんです。
そんなチームだったのでアメフトの部活としては強くて、3年間日本一を目指して打ち込んだ。もう寝ても覚めても目指せ日本一。
僕はランニングバックという、走って得点を取りに行くポジションでした。ずっと小学生の頃から足は早かったので。
実際3年生の時は春の大会で関東優勝して、秋は日本一を目指したけど同じ関東大会で早稲田の奇策にやられて負けてしまった。
今人生を振り返ってもあの日が一番泣きましたね。
大学はそのまま法政大学に進むんですけど、高校3年間アメフトに打ち込んだ反動で、大学ではもうガチでスポーツはやりたくないというマインドになったんですよ。
附属校で大学に進めることは分かっていたので、高校生の頃から社会人になったら何やりたいかな?と考えていて、それこそテレビ・CMが大好きでマスコミ関係に行きたいと思っていた。
だから高校の時点で、大学に入ったら2年生でゼミに入って映像作る、3年生からマスコミ講座という就職講座があるからそこに入る、マスコミ関係に就職する、というのはやりたいこととしてずっとイメージがありました。
実際2年生でそのゼミに入って、ずっと映像を作るという大学生活でしたね。
就職はテレビ局と広告代理店しか受けていなくて。テレビ局は全部ダメで、なんとか広告代理店に入ってそこの営業マンとして社会人生活をスタートしました。

ランニングとの出会い。エンタメの仕事がしたいと転職、人生の転機となった仕事
入った広告代理店は基本的に1つの会社がメインのクライアントで、しばらくしてから他のクライアントで広告の仕事をしたいなと思い始めたんです。
それと地方勤務だったので東京帰りたいという気持ちも相まって、25歳の時に転職先も決まってないのに辞めて、半年間プー太郎してました。
それで半年後に、ランニング系の雑誌を出している出版社に入りました。
最初の会社である時先輩に誘われて「山走らない?」って言われて、「なんすか?それ」ってなって「やりましょうか!」と山を走りだしたんです。 それがランニングとの出会いで、出版社を知るきっかけ。
趣味の領域で広告の仕事ができるのが面白そうだなと思って入りました。
入社してからは、あれよあれよとランニングにどっぷりハマり、今度は泳げないからトライアスロンもやってみようとチャレンジしたくなって始めたり。
交友関係もかなり拡がりました。
そこでは色々な企業と仕事が出来て、めっちゃ面白かったんですけど「楽しいけどここじゃないんだよな」って思っていて。
「これじゃない気がするな。でも何していいかよく分からないな」という感じでした。
その時はもう30歳手前で。
そんな時に、とあるランニングイベントのディレクションをすることになり自分がイベントのMCを発注したんです。
そのMCの方々が、大会の会場を挨拶だけで盛り上げたりとか、「おはようございまーす!」って言うだけでワー!ってみんなが元気になったりするのを見て。
この仕事格好良いなと思ったんですね。その人たちもめちゃくちゃ生き生きしていて。
そもそもそういう喋りの仕事があるんだということを初めて知ったんです。
その頃、上司から「岡田君って喋れて圧倒的にお客さんとのコミュニケーションとるの上手いよね」って言われて。考えたらよく「パーティで司会やってよ」とか言われるな俺、って。
確かに上手いかもしれないって自分でも思って(笑)。
好きで得意で磨いたらいけるかも、しかも楽しそうだぞ!とすごくその時に思って。転機でしたね。
社会人になってから7年間くらい、ずっと僕は悶々と悩んでいた。
でもずっと自分の名前で仕事がしたいと思っていたんですよ。
それが何かは分からないというのをずっと悩んでいて、その時に「人生1回だし、これに賭けるしかないわ」と思ったのがその時ですね。
全く仕事がない逆風のスタート。人との縁に救われ、切り開いたフリーランスMCとしての道
(喋り手としての)経験が全く無いから、とりあえず会社に勤めながらアナウンス学校に通い始めた。
1年間その学校に通うと、最後に色々な事務所がオーディションしにきてくれるんですよ。
そこでとある事務所に、「預かり」という所属の一つ手前のような状態で入れることになって。ラジオパーソナリティをはじめとして、色々な人がいる事務所だったんですけど。
それで決意を元に当時の会社を辞めた。けれどもスキルも無いし実績も無いから、しばらく仕事も来なくてどうしようもないという状態でした。
そんな時に、辞めた出版社から「自転車のイベントやるからMCやってよ」と声をかけてもらった。
100人くらいのイベントだったんですけど、茨城の田舎の小さい公園をぐるぐるまわるという自転車イベントで。
簡易PAでマイク持って、ちょっと盛り上げて表彰とかやってと言われてやって。
これがめちゃめちゃ楽しかった。
難しいことを考えないで、想いを乗せたメッセージが誰かを喜ばせるという感覚がすごく嬉しくて。
発注してくれたのは出版社にいた同い年の男の子たったんですけど、MCとして喋っているところを見たことがないのに声をかけてくれたんです。
発注してくれたのが嬉し過ぎて、これがやりたかったことだなと思えたし、帰りの車で高速飛ばしながら「見つけた!これだ!最高だ!」って号泣しました。
それがスタートで、最初はほとんど受からない中で様々な仕事のオーディションを受けたり、色々な人とのご縁で少しずつ仕事が出来るようになっていきました。
失敗はたくさんしましたよ。
例えば1,000人以上が乗る大型客船でのイベントでは、まだ曲が続くのにダンサーを「お疲れ様でした!」と袖に戻してしまい、次の曲が始まっちゃって「再入場です!」ってごまかす羽目になったり…(笑)。
僕はランニングとかロードバイクとか、アスリートのいる場で応援するというMCが結構多いので、「今日のMCありがとう、おかげで頑張れた」「パフォーマンスが出せました」とか言ってもらえる時がすごく嬉しいです。
わざわざ言いに来てくれることがあるんですよ。
誰かの力になれたというのはやっぱり嬉しいですよね。
憧れの人はジョン・カビラさん。あの方のような、”日本で指折りのポジティブオーラを届けるMCになる”というのが目標ですね。

プロフィール
岡田 拓海(おかだ たくみ)
フリーランスMC・ラジオパーソナリティ。
埼玉県生まれ、神奈川県横浜育ち。
法政大学社会学部卒業。
新卒で広告代理店に入社、自動車のプロモーションを担当。
その後ランニング・ロードバイク雑誌を発行する出版社、DeNA勤務を経て2017年に独立。
現在は主にランニングやロードバイク関連のMC、ラジオパーソナリティーとして活躍。