WORK HARD, PLAY HARD. JUST CHILL, BE YOURSELFを体現している方々のライフストーリーを紹介する“RH STORIES”。RUE HARKHAのブランドローンチを記念して、テレビ朝日のエグゼクティブプロデューサーとして現在も「ロンドンハーツ」「アメトーーク!」「テレビ千鳥」をはじめとする人気番組の演出を手がける、加地倫三氏をフィーチャーします。
インタビュアーは、キャリア初期を加地氏の下でAD・ディレクターとして働いていたRUE HARKHAの
代表・別府が務めます。
子供時代は「超」がつくテレビっ子。お笑いと共に育った青春時代
− というわけで、RUE HARKHAは「Tシャツを通じて人と繋がる」というコンセプトがあって、「自分らしさ」を追求して生きている方々に、それぞれの人生を振り返りながらどうやって今の「自分らしさ」に辿り着いたのか、その人が大事にしている価値観は何なのか、を取材しています。ブランドのオフィシャルローンチにあたって誰を取材するかとなった時に、僕の中では(かつての師匠であった)加地さんしかいないなとこのインタビューをお願いしました。
難しいな。難しいテーマよ(笑)。
− すみません(笑)。改めて今の自分はどうやって作り上げられたのか、振り返ってみてもらえますか。そもそも、加地さんはどんな子供時代を過ごしたんですか?
お笑いっていうことでいうと、超がつくテレビっ子。
特に土曜日が嬉しくて仕方なくて、テレビの前に食べたいお菓子を並べて、1個ずつお菓子を食べながらドリフを見たり、ヒーローものを見たり、仮面ライダー見たりっていう子だった。
小学校5年生くらいの時に、漫才ブームっていうのが来るんだけど、いわゆる(ビート)たけしさんとか、紳助さんとか。
昔ラテカセといって、テレビとラジオとカセットがセットになってるやつがウチにあって、それに漫才のネタを録音して覚えて、学校で休み時間とかに披露したりしてた。
その後中学生くらいかな、とんねるずさんが「お笑いスター誕生!!」というコンテストの番組で世に出てきて。二人は当時帝京高校の3年生で、まだとんねるずという名前もなくて「貴明&憲武」として出てたんだけど、それがもうとにかく面白くて。
「お笑いスター誕生!!」は12時からやってたんだけど、12時5分くらいまで学校があるのね。
当時はビデオ録画がない時代だから、ダッシュで帰らないと見れなくて。
もうバッグいつでも持って出られるようにして、授業終わりのチャイムが鳴ったら、バァーッてダッシュで家まで帰って見てた(笑)。
そういう子供だったね。
− 高校時代はどんな学生だったんですか?
高校生の時は麻雀ばっかりやってた、とにかく授業が大嫌いで。
物理とかさ、高校入ったらめちゃめちゃ難しいじゃん。
でも高校3年生の時に、当時付き合ってた彼女に「男は女を食わせてナンボだ」っていう一言を言われて、そっかって慌てて受験勉強始めるの(笑)。
それで(当時やっていたバンド含め、勉強以外のことを)全部やめた。浪人したのも含めて約2年間、テレビもほとんど見なかったね。
もうそうなったら受験勉強以外のことをしたくなくなるんだよね。
振り返るとそういう、色んな凝り性があるんだよね。
例えば小学校の最初は野球が好きで、本当に野球のことばっかりで。(小学校)高学年になったらゴルフ、高校になったらバンドとかって。
すごい凝り性がずっとあるんだけど、でもお笑いとテレビだけはずっと安定してあった。
あえてバラエティではなくスポーツ志望でテレビ局に就職、イケイケの新人時代
− その後、大学を経て就職活動へ。テレビ局に入社した経緯について教えてください
当然テレビが第一志望だったんだけど、当時テレビ(局に入るの)は狭き門で、受かるわけないと思ってたんだよね。
それこそどんな番組やりたいのとか、どんな企画やりたいのって聞かれた時に、大学4年生になったばかりの自分がそんな企画思いつきもしない。
ましてやそれをプロ相手に喋るなんて、絶対通用しないって思ったから。
それでテレビ局の面接受ける時に、本当はバラエティやりたかったんだけど、スポーツやりたいですって言って(テレビ朝日に)入るんだよね。
スポーツの知識はどの分野もいけるから、その方が戦い方としては賢いかなって考えて。入ってからバラエティやりたいって言い直せばいいやって思ったの。
今でも覚えてるんだけど、フジテレビが第一志望で、「君はフジテレビのスポーツに入ったら何がしたい?」って聞かれて、普通に自分が本気で思ってることを言っちゃって失敗した。
当時「プロ野球ニュース」っていうスポーツ番組があって、今日のホームランっていうその日のホームランをダイジェストで流すコーナーがあったの。
俺がずっと好きで見てた時は、それをエンディングでやってたんだけど、途中で構成が変わってそれを
オープニングでやりだしたのね。だから(誰がホームラン打ったか)ネタバレしちゃってるわけ。
それをまず変えたいって言ったら、(その番組を担当していた面接官が)めちゃくちゃ不機嫌になって(笑)。
で一次面接で落とされた。その時に、あっ批判してもしょうがないんだなって思うのよ。
そこからホメ作戦に変えるんだよね。でもそのホメも、より具体的に褒めないといけない。だから他の人が言わない褒めるポイントを研究しだして、面接に臨むようになったの。
− テレビ朝日に入社してスポーツに配属されるわけですが、どんな新人だったんですか?
もう、イケイケ(笑)。
若い頃って根拠のない自信持ってるじゃん、完全にそれ。
(新人なのに)ああした方がいいこうした方がいいみたいなことを、自分より20歳も上の人とかに言うんだよね。
− それ、怒られたりしません?
もちろん、怒られたりキレられたりした。でもそれに対して、逆ギレして部屋を出ていったりしてた(笑)。
自分としては、こういう風に放送してあげないと選手がかわいそうだとか、こんな編集だったら良さが伝わらないじゃないかと、良かれと思って言ってたんだけどね。
でも今思うと、それは本当に根拠のない自信で、いざ作る番になった時ってそんな簡単じゃないじゃん。
そんな何も分かっていない新人だったけど、スポーツを異動で出ていくまでは、「俺がテレ朝のスポーツ変えてやる」と本気で思ってた。といっても、野球以外でね。 野球は三雲さんっていう確固たる先輩がいて、その人は本当にすごいなって思ってたから。
バラエティで打ち砕かれた自信。乗り越えるきっかけになった「1つ頼まれたら2つやる」という母の言葉
− イケイケのスポーツ時代を経て、バラエティに異動した後もやっぱりイケイケだったんですか?
5年目でバラエティに行くんだけど、もう全部ひっくり返ったね。
スポーツでやってたノリとか、ちょっと冗談言ったり、下ネタ言ったりとかが全然ウケない。
当たり前だよね、スタッフもプロの芸人さんとかタレントさんを常日頃見てるプロ集団だからさ。そんなもん通用しないじゃん。
で、バラエティ入ってからしばらく無口になるんだよね、喋っちゃいかんって思って。
そのうえ、仕事のスピードもついていけなくて。
スポーツの仕事でのスピードと、バラエティの現場のスピードってまた違うんだよね。
バラエティは、先を読むこと、現場に対応すること、さらにそこに美術さんとか技術さんとか、色んなセクションのスタッフが同時に動く。
やっぱり数が多くて、1個のことをやりながら、3-4個のことを同時に考えなきゃいけないっていうのが出来なかったんだよね、最初。
それこそ(当時担当していた番組でナインティナインの)岡村さんに、あまりにその日の段取りが悪くて本番中に「加地!」って怒られたことがあった。
もちろん笑いにしてくれたんだけど、もうそこでガコーンって来て。俺ってこんなに能力ないんだなって思って。
− 加地さんにもそんな時代があったなんて信じられないですね。その挫折はどう乗り越えたんですか?
たまたま1個先を読む、っていうのが出来た時があったの。
その時にこういうことかって思って、このノウハウを全部に使えばいいんだって思った。
それで急にパーンと視界が開けて、あっADが番組を動かしてるんだって思ったのよ。
番組で一番詳しい、誰よりも番組のことを分かってるのがADだと。じゃ一流のADになろうと思うようになった。
そんな時、就職する前に母親に言われた「1つ頼まれたら2つやりなさい」という言葉を思い出すんだよね。
ADって頼まれることが多いじゃん。例えばコーヒー買ってきてって言われたら、コーヒーを買ってくる
だけじゃなくて、もう1個何やろうかなって考える。
そこで甘いものがあった方がいいかなってチョコレート1個添えたり、深夜だったらコーヒーだけだと良くないから水も買ってきたり。
それ以外でも、例えばロケ現場がたまたま下町で、自分がその回の担当ADじゃなかったりするとちょっと余裕があるのね。
その間に和菓子を買っておいて、ロケバスに入れといたりするとみんなテンションが上がるじゃん。
それこそロケに“遊び心”を持たせようと思って。
面白がるっていうことをやり始めることによって、よりディレクターの目線に近いようなことを出来るようになっていったんだよね。
インタビュー後、メッセージカードに記入した言葉は母から授けられた「1つ頼まれたら2つやる」
ヒットしたからと固めない、常に次の準備をすることを学んだロンハーの危機
− その後「ロンドンハーツ」「アメトーーク!」などを手掛け活躍していくわけですけど、他に大きな挫折はありましたか?
ロンハー(=ロンドンハーツ)で、当時「スティンガー」っていう、浮気調査とかブラックメールみたいな企画がウケて、毎週そういう企画ばっかりやってたのね。
そしたら、ある時突然スパーンと視聴率が一気に下がっちゃって。
もう壊滅的な数字で、そこから何を試してもダメで。
もう今週ダメだったら本当に番組が終わってしまうという時に、たまたま「格付けしあう女たち」っていう企画が良い数字をとって、一気に生き返ることが出来た。
でもそれは本当に運が良かっただけで、その時にヒットしたからって固めちゃいけないんだっていうのを覚えるんだよね。
人はすぐ飽きるものだから、ヒット企画こそ乱発しない方がいいんだなって。
あとは、次の準備を常にしとかなきゃいけない、ということも。ヒット企画を考えてそればっかりやってると、その脳みそしか使わなくなる。
そうするとそのヒット企画がダメになった時に、新しい企画を考える脳を使ってないから出てこないんだよね。
だから「格付け」も普通だったら毎週やるところを、3〜4週に1回にして、違うことを試すっていうことをしてた。
その中でヒットがまた出たら、番組を支える二本柱になる。さらにもう1個当たったら三本柱になって、どんどん増えていけば野球でいうローテーションが組めて、番組をより長く続けられるって思ったんだよね。
− その為の、新たな企画を生み出すアイデアはどこから来るんですか?
実はインプットする努力は一切しないんだよね、だからものすごく知識が偏ってて。
知らないことは本当に知らないのよ、漫画も知らないし映画も知らないし。
だからたまたま見たものとか、たまたま経験したものをインプットにして、それをずっと頭の引き出しに入れるようにしてる。
何に対しても、「なんで?」って考える癖はあるんだよね。
会社に入った時に、さっき話したスポーツの三雲さんって人が、仕事をする時に「自分だったらこうするって常に思いなさい」って教えてくれて。
だから、なんでこうなってるのかな、なんでこうしてるのかなっていうのをなんでも考えるようになった。
(考えたことは)正解じゃないかもしれないけど、自分なりの考えで答えを出すと、そのことが自分の材料になるんだよね。
それがいっぱい自分の引き出しの中に入ってきて、そこから応用するっていうことをしているかな。
「小さなことにクヨクヨしろ」。だからいくつになってもフロアでカンペを持ち続ける
− インプットは無理せずに、自分が自然と体験したことについてきちんと考えて糧にしてるということですね。そんな加地さんは、まだやり残していることってあるんですか?
これが俺まだ全然“現役”だと思ってるから、仕事に関してはまだやり残してるっていうか、今も常に
新しいことを追っかけているから。「やり残してる」っていう発想になってないかもしれない。
それこそ幻冬舎社長の見城さんが本で書いてたんだけど、「小さなことにクヨクヨしろよ」っていう。
小さなことに気付かない奴に、大きな仕事は出来ないということなんだけど。
この歳になって、番組のテロップを一字一句まだ全部発注したりしてるのって、そういう小さいことに目を向けないで番組を作ってたら、番組もだんだんダメになってしまうと思うからなんだよね。
それは自分自身もそうで、小さいこととか汚れ仕事とかをやっぱりまだやらないとダメかなって。
だから今も(番組収録の時にフロアで)カンペを持ってるのもそういうことなんだよね。
− では、最後に聞きます。加地さんにとって「自分らしさ」とは何ですか?
答えになってるか分からないけど、逆境とかうまくいってない時に張り切るタイプということかな。
逆にって考えるのが好きで、例えばどっかから変な売り込みがあった時とかに、普通だったらいやいやってまず弾くと思うんだけど、そこに何かヒントがあるんじゃないかな、考えといた方がいいなって思ったりとか。
それこそ今アメトーークはMCが一人いないじゃん。
じゃ新しいこと、新しいやり方を考えていたら、それがもしかしたら結果番組の長続きに繋がるんじゃないかなとか。
それが物事を考えるヒントになったりとか、逆にやってみたら新しい発見だったりとか、新しい自分の引き出しになったりするから。
そう思うのは、それをしてきたことによる成功体験があるんだろうね。
プロフィール
加地 倫三(かじ りんぞう)
テレビ朝日総合編成局制作1部エグゼクティブ プロデューサー(役員待遇)
1969年生まれ。神奈川県出身。
上智大学卒業後、1992年にテレビ朝日に入社。スポーツ局に配属後、1996年より編成制作局に異動してバラエティ番組の制作に携わる。
2021年現在、「ロンドンハーツ」「アメトーーク!」 「テレビ千鳥」等の総合演出・エグゼクティブ
プロデューサーを務める。
趣味は競馬と、ワイン・シャンパンを楽しむこと。